クミンとマサラ

写経・tutu浦々

きっかけ

研究動機

どうして写経を卒論のテーマにしたいのか?ってことを、突き詰めてた時期がありました。(あまりにも進まないので)

その時にかいてみた、研究動機です。本番ではまるまるカットしたから、供養。チーン

 

では、どうぞ!

私は幼いころからずっと、一つの考え方を心に持っていた。そういう風に考えていると自覚したのは最近のことである。

それは「いいことが起こったら、その後には絶対悪いことが起こる」という考え方。

 

 

 

水戸黄門(「人生楽ありゃ苦もあるさ」)を観て育ったからなのか。または、身内の不幸が続き、自分のせいだと思いたくなかったからかもしれない。自分が悲しい思いをするのは誰のせいでもなくて、運命で決まっていたことなのだと。考えることを放棄したかったのかもしれない。

 

それは自分に責任はなく楽である反面、良いことが起こることが逆に恐怖になってしまうようになった。良いことが起きてしまえば悪いことがやって来るからだ。「何も起きない」ことを望むようになった。

 

 


 それが、大学生になってから一変したのである。刺激を毎日受け「何も起きない」を望む自分にとっては過酷な環境。とてもうれしいことが起きたり、鬱になるくらい落ち込んだり、とにかく思考が忙しくなった。良いことが起こる恐怖をいつももち続けて、良いことがおこればその後いつ悪いことが起きるんだろうとおびえていた。

 

 


書道サークルに所属し、はじめて写経をした。

般若心経にふれるとき、すべてが静寂になるし、からだのすべてはなにかに集中している。眼は字を追うことに精一杯で、耳では自分がかすかに文字を追う声が聞こえ、鼻は常に墨の匂いをかいでいて、舌で般若心経を唱えているし、姿勢をたださなければならないので身は緊張しているし、ここをもう少し伸ばそうとかこの部分はゆっくり跳ねようとあたまではおもっている。からだのすべてが集中していると、ひとつにまとまっているような気もするし、バラバラになっている気もする。これは写経してみればすぐにわかる。

 

 

般若心経を面白いなと気づいたときは、写経の体感が面白かった。中身や仏教に興味はなかった。

しかし あるとき、なにかのきっかけでふと気づいた。私が怖がっていた悪いことというのは、自分が注意していれば防げるものなのではないか、と気づいた。アルバイトでミスしたり、友人と大喧嘩をしたり、テストでいい点を取れなかったりなど、私にとっての「悪いこと」は、ミスをしないように集中したり、他者への思いやりや優しさをいつも心がけていたり、授業に集中する環境を整えたり、すべて自分が配慮していれば起こるはずもないことだった。「わるいこと」が起きない人生があるのだ。

 

 

 それからは「良いこと」と「悪いこと」に恐怖することはなくなった。二つを区別する意味がない。心がけているから良いことしかおこらないし、悪いことと思えることも起こるが、原因を知っているから見えないなにかがおそいかかってくるという恐怖がない。すべて「自分のせい」なのだ。「誰かのせい」ではないことに気付いて、怒りを持つことも少なくなった。ときどきショックなことも起こるが、それは振り返ってみればかならず原因があって、そのような結果になる。 般若心経をテーマにしようと決め、仏教の考え方に触れていくうちに、自分が実践している考え方が「因果応報」の考え方だと知ったのだ。これが私と仏教との出会いである。

  
 因果応報なら、自分のしたことがかえって来るので、心がけようと思える。
 今自分がいる(結果)は、これまでの行動(原因)があってこそだ。


 

般若心経の読み方に関して、漢字の意味を考えすぎるなとか、家で読むなとか、様々な読み方が研究者によって唱えられてはいるが、自分なりの般若心経の読み方を研究していきたいと思った。

 

(結局、般若心経を研究することは断念しました。)

 

(写経を、もっと若い人のものにしたい。どうしたらみんな、興味を持ってくれるだろう。写経したときの気持ちよさを、みんなにいいふらしたい。言いふらしてすっきりして、社会に飛び込みたいと思った。)

 

 

卒論はどうなったか?

こんな研究動機でも、教授は「あなたらしい」と言ってくれたから、そのまま研究することにしました。写経の魅力発掘💪

評価は「テーマが大きすぎてまとまってない」「でも最後の考察はよかった」でした。

まだまだ、ずっと勉強が必要なんだけど、一生続けていくことが私には必要なんだと思う。